この記事は ファシリテーター Advent Calendar 2018 – Adventar の9日目の記事です。
(gaoryuさん毎年企画ありがとうございます。)
毎年立ち上がったら何も考えずに参加表明しては、「そもそも自分ファシリテーターなのか?」「ファシリテーターって何よ?」と迷ったり、「ファシリテーションの文脈でこんなことしてみたい」などと、自分にとってのファシリテーションを棚卸する機会にさせていただいています。
今年は何を書こうか…と当日まで迷ってしまいましたが、最近の関心ごとの一つの数学的感性とファシリテーションの重なるところについて考えてみたいと思います。
目次
ファシリテーターが数学者の視界に興味を持った理由
機械学習プロジェクトに関わっていたのに自分自身は数学が苦手・・・という状態は些か、というか大分恥ずかしいなと思い、大学で諦めた数学に向き直りたいと亀の歩みで勉強し始めました。
プロジェクトファシリテーションするためにも少なくとも基礎レベルの内容は抑えておきたいという気持ちがスタートラインだったのですが、「数学」という言葉に興味をもって見回すと世の中では数学のショートプレゼン交流会が大盛り上がりしています。
どうも世の中では数学への注目が高まっているらしい・・・。
ミーハーな私ですので、皆が惹きつけられているものを私も見てみたい、という気持ちが高まります。
また、ちょうど仕事でお世話になった数学の元ポスドクの方々と色々お話しできたことで、なんだか数学が身近になったような気がしたんですよね。
一緒にプロジェクトを進めるこの人の視界を知りたい、そんな興味から素人ながらお話しさせてもらううちに、自分とはもう相容れないものと思っていた数学の世界にも自分と重なるところがあることに気づきました。
数学者とファシリテーターの重なるところ
共通見解を積み上げる
ファシリテーターは場を促進するために、参加者の認識の一致を確認し、それを前提に議論を発散させたり合意形成に導いていきます。
多くはとっ散らかった状態の場において、事実と解釈を切り分け、その場に於いて前提としていくべきものの共通見解を作り上げていくよう働きかけます。
これは数学で定義を積み上げていくプロセスに似ています。
数学では無条件で正しいものとする「公理」の上に定義を積み重ねますが、ファシリテーターが扱う場は公理にあたるものは見えていないことが多いですね。
対話を重ねながら(定義を積み重ねながら)、同時に隠れている公理を掘り下げていくようなイメージでしょうか。
積み重ねていた定義が実は皆それぞれ違う公理の上に成り立っていたことを見つけて新たに積み上げなおすこともありますね。
いずれにしろ、公理の正しさは問わず、中立な視点から議論の積み上げプロセスの管理者たるファシリテーターは数学者のイメージと通じるものがあるように感じています。
天文学者、物理学者、そして数学者がスコットランドを走る列車に乗っている。天文学者は窓の外を眺め、一頭の黒い羊が牧場に立っているのを見て、「なんと奇妙な。スコットランドの羊はみんな黒いのか」と言った。すると物理学者はそれに答えて「だから君たち天文学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドには黒い羊が少なくとも一頭いる』だろう」と言う。しかし最後に数学者は「だから君たち物理学者はいいかげんだと馬鹿にされるんだ。正しくは『スコットランドに少なくとも一頭、少なくとも片側が黒く見える羊がいる』だ」と言った。
このジョークはコンサル系のロジカルファシリテーターっぽいですね。
取り扱うものに美意識を感じる
前述の友人が「アートとしての数学を楽しむ」という価値観を教えてくれました。
また興味深いキーワードに具体的な美しさを問うてみると、
「素朴な直観では扱いきれない事象を厳密な定義し世界の姿を導くような定理に美しさを感じる」
のだそう。(若干意訳ではありますが)
最初は「そんな考え方もあるのねー」くらいに思ってましたが、それは自分でいうとあの感覚に近いのかもしれない、と思い当たることがあります。
一人ひとりの視野ではたどり着けない、その場にいるメンバーだからこそできる対話をできているときの感覚。
多分真理の扉に手をかけている・・・と感じる感覚。
そんな対話の状態に美学を感じるファシリテーターは、数学的美しさを感じる数学者と共感しあえるのかもしれません。
ファシリテーターが数学を学んだら
そんなわけで、重なるところもあるかもしれないファシリテーターと数学。
ファシリテーターが改めて数学を学ぶことに意味はあるのでしょうか。
これは私自身がこれから検証していきたいと思いますが、恐らくは二つの効果があるのではないかと思います。
複雑性の高い場を根気よくひも解く根気の醸成
自分の知っている言語で書かれていて知っているはずのことしか書かれていない筈なのに何が起こっているのかさっぱりわからなくて泣きたくなるんですが、そこで逃げずに挑み続けて腹落ちするまで持っていくことができたら。。。
それは困難な場でも諦めず挑む訓練になるのではないでしょうか。
上記通り、発生している思考プロセスは場におけるファシリテーションに近しい要素もあるので、ファシリテーションの一側面の模擬戦として数学に挑むという発想もありかもしれません。
論理を扱う表現力の拡張
先人が挑み、刻んできたアートを感じる(ほどに見事な)としての数学。
それらに触れることは、ファシリテーターにとっては論理的思考力の研鑽は勿論、リフレーミングの視点の体験、またそれらを説明するための論理を扱う表現力の蓄積になります。
勿論、学術書の表現をそのまま場で使うことはないでしょうが、硬いものを柔らかく表現することはむしろお得意な方が多いと思うので、ファシリテーターが数学に触れることで数学の世界へのコネクターにもなれるかもしれません。
ファシリテーターは数学の夢を見るか
というわけで、数学を学びたくなったファシリテーターその他諸氏に向けて、鋭意私が人体実験しつつネタ準備中だったりします。
(来年は形になる・・・筈!)
一緒に学んでくれる方はまずはこの辺から初めて見る( ^ω^)?